明日の前に...

「ごちそうさま・・・。」

ラーメンの器をコトン、と置くと、螢子は俯いたまま帰ろうとした。

『送ってく。』

このままで帰してはいけない。
俺はそう思った。
ごちそうさまの声も小さく、実際今日ラーメンを食べているとき、こいつは一言もしゃべらなかった。

(いつもと何か違えんだよな。)

そもそも時刻は23時40分。
俺みたいな馬鹿でも送っていかなくちゃいけないことくらいは分かる。

螢子は素直に再び椅子に腰かけ、最後の螢子の食器を洗う俺を無言で待っていた。
その作業をすぐさま終わらせて、屋台の明かりを消す。
あたりは突然真っ暗になって、街灯の少ない路地では月がよく見えた。

仕事中は暑かったが、さすがに12月に入ったこの季節に汗をかいたTシャツで帰っては風邪をひく。
Tシャツを脱いでパーカーを着て、俺は螢子の元へ駆け寄った。

『ほれ、行くぞ。』
「・・・うん。」

螢子はゆっくり立ち上がって、屋台を轢く俺の後ろをついてきた。
無言の俺たちの耳には、屋台のガラガラという音だけが聞こえている。
途中俺が発した『もうすぐ来年になっちまうな。』という言葉も華麗にスルーされてしまった。

「公園、入らない?」

公園の前で立ち止まり、俺の方を見ずに螢子はそう言った。

(やっと喋ったかと思えば・・・。)

屋台を公園の横に置いて、公園の中へ入る螢子の後を追った。
小さな公園にはライトは一つしかなく、それが幽霊のようにぼんやりと光っている。

螢子は公園の真ん中あたりで立ち止まり、俺も同じようにして、螢子の後ろに立った。
唐突に踵を返して、俺の方へずかずかと向かって来たかと思えば、地面を見たまま動かなくなった。
さっきまで2メートルほど離れていた俺たちの距離は突然縮まり、今は30センチくらいだろうか。
俺の目と鼻の先に螢子はいる。

『お前、今日、どうしたんだよ?』
「・・・ねえ幽助。」
『なんだよ。』
「もうすぐ年末だね。」
『?そうだな。さっきの話の続きか?』

暗いトーンでこんなことを言われることは全く予想していなかった。
それは、この重苦しい雰囲気には大凡不釣り合いな言葉だった。

『来年はどんな年になるかなー。』


「・・・ばっかじゃないの?」


『・・・え?』

螢子はあまりにも冷たい口調でそう言い放った。
俺は状況が読めていない。

「来年が必ず来るものだなんて、どうしてそんなこと思えるのよ。」
『や、そりゃ、必ずじゃねえけどよ。そんな悲観的に考えることでもねえし・・・。』

俺には、螢子の考えていることが何一つ分からなかった。
どうして今この場面で感情的になっているのか想像もつかない。

(怖え。)

素直にそう思ってしまった。

「そもそも明日が来る保証だってだってないのよ。」
『おい螢子。お前今日どうし・・・』


「それは幽助が一番分かってることでしょう?
明日は必ず来るものなんかじゃないって・・・!」


はっとさせられた。

螢子はさっきからずっと、俺のことを言っていたんだ。
黙って2回も死んだ、俺のことを―――。


明日を螢子に保証できない俺が、「来年」なんて口にしたから。


俺からは見えない、下を向くその表情は怒りか悲しみか。
おそらくそのどちらでもあるのだろう。


「ねえ気付いてる?私たちがどれだけ遠回りして来たのか。
こんなに長い時間が経っちゃったのよ。
なのに、まだ気付かないの?」


螢子は俺が口を挟む暇もないくらい早口で喋り続ける。


「明日なんて待てないの。」


(「落ち着け」って、どうして言えないんだ。)

今にも泣きそうな声で俺のことを責める螢子を、俺はどうすることもできない。
抱きしめることも、なだめることも。


―――俺はこいつの恋人じゃないんだ。


「恋人」。
そんな関係だったら螢子は今までこんな苦しい思いをしてこなかっただろうか?

苦しい?「何」が?
そもそも今こいつは苦しみながら俺の前に立っているのか?
俺は今、螢子を見て、何を考えているんだろう?

きっと俺たちの通ってきた道が俺たちをこんな限界まで追いつめたんだ。


「それ」を伝えずに、「遠回り」してきたせいで。


「今日、今日じゃないともう一生だめなの。」


『螢、子。』

ぐちゃぐちゃな気持ちのままで唯一言葉にできた彼女の名前。
もしかしたら掠れすぎていて、螢子の耳に届かなかったのかもしれない。


「・・・そんな気がするの。」

『・・・何がだよ?』


螢子が、ぎゅう、と自分のコートの裾を握りしめた。


「明日幽助が死んじゃったらいやだもの。だから・・・今日言うの。」


彼女にとって「明日」という言葉は、希望でも何でもない。
それは自分のせいだと分かっている。

此処に今いられることが、彼女の起こした奇跡によるものだということも。

螢子は唇をきゅうと噛んだ。
手が震えているのがわかる。
顔を覗き込みたいが、なんだかそれはやってはいけない気がした。


思えば俺たちは出会ってから、俺が22歳、螢子が21歳になってしまったこの年まで、その言葉を一度も口にしたことがなかった。


螢子の気持ちは十分すぎるくらい分かっていた。
そしてそれは螢子も同じだったと思う。


それなのに。

チャンスは何度もあったのに。

俺たちは一度も「その言葉」をお互いに伝えることがなかった。


こんな男でいいのだろうか。
そう思うことも多々あった。
それでも言うことができなかった。

そしてそのツケが今まわってきたわけだ。
俺のせいで、螢子は今、おそらく螢子が生まれてから21年間どの男にも言ったことのなかった言葉を言う。


(「苦しい」って、これか・・・?)


俺たちが何度も遊んできたこの公園は夜はとても静かで、
今この街には誰もいないんじゃないか。
そう思えるほどだった。

―――およそ30センチ。
俺と目の前の螢子の距離はたったそれだけだった。
すごく近くて遠いように思えた。

1ミリだけ。
そんな気持ちで足を地面につけたまま前に進めた。
靴が砂と擦れ合って小さくジャリ、と聞こえた。

螢子は震える声を落ちつけようと何度も深呼吸している。
俺の心臓もうるさく鼓動を刻んでいる。
公園の横を一台の車が横切ったが、俺の心臓のほうがうるさかった。

(もう、1ミリだけ。もうちょっとだけ・・・。)

俯いているせいで分からないが、きっと目に涙をためている。
螢子のいつもの癖だ。
涙をこらえている間は喋らないようにして、絶対に泣かないように頑張っているのだろう。

螢子との距離はあと10センチくらい。
大きく聞こえる鼓動は、俺のかもしれない。
でも、螢子のかもしれない。

―――螢子がゆっくりと顔を上げた。
俺の目をまっすぐ見て、そして口を開く。

―――螢子が小さく息を吸う音が聞こえた。
声を発する、0.5秒前。










螢子に言わせようとしてるなんて。
俺は情けない男だ。
本当にそうだよ。

照れ屋、だとか。
不器用、だとか。
恥ずかしい、だとか。
そんなのは理由にならない。
ここで今俺が動かなかったら、きっと俺たちの関係はずっと変わらない。
それで二人とも全く違う相手と、全く違う人生を歩むのか?
そんなのは嫌だろう?

動けよ。
動くんだよ。
今動かなくていつ動くんだ。
生き返らせてくれた感謝以上の感情が俺の中にはあるはずだろう。
きっとあいつも待っているはずなんだ。
「苦しい」とか、そんな大きなものを抱えながら、ずっと。
ずっとずっと待っていたはずなんだ。


俺には、言わなくちゃいけないことが、あるはずだ。










「―――す、」


『好きだ。』






螢子との距離はゼロになった。



初めて抱きしめた、俺の「好きな人」。
そんな中学生みたいな言葉を、頭の中で反芻した。

俺の腕に螢子の肩はすっぽり収まった。

―――ああ、こいつこんなに小さかったんだなあ。

ずっと一緒にいて、ちっとも気付かなかった。
抱きしめて初めて、気付いたんだ。


好きだ、好きだ、好きだ。


そんな簡単な言葉の意味を噛みしめた。


螢子のすすり泣く声が俺の腕の中から聞こえてくる。

「む、虫の知らせ、って言うの、かな・・・?」
『ん。』

螢子が小さな小さな声で話し始めた。

「朝から、なんだかずっと、今日じゃなきゃだめ、って。」
『そっか。』

「今日がラストチャンス、だって、そんなの、分からなくて、でも。」
『うん。』

「ああ、そうか、って妙に納得しちゃう自分がいて。」
『うん。』

「きっと明日が来る前に伝えなくちゃ、って・・・思って。」
『・・・うん。』

「でも、いざ、考えてみると、変で。」
『そうだよな。』

「本当にこの言葉で、合ってる、のかなって思っちゃって。」
『・・・おー。』

「でも、なんでか、誰かが『そうだよ。』って言って、くれてるような気がして。」
『おう。』


「・・・・・・幽助。」
『ん?』



「―――すき。」



螢子は俺の目をまっすぐに見て言った。

(今日こいつの目初めて見たかも。)

初めて聞いた言葉。
それはもしかしたらずっと我慢させてきた気持ちだったのかもしれない。

本当に俺たちは遠回りをしすぎてたんだ。
そんなことに、2回死んで、さらには好きな女に泣かれるまで気付かなかったなんて。

『情けねえなあ・・・。』

自嘲気味に呟いて、もう一度腕に力を込めた。

明日が来る前のちょっとした言葉。ちょっとした奇跡。
―――多分来年もいい年だ。

俺は素直にそう思った。

END


あとがき

>>「明日幽助が死んじゃったらいやだもの。だから・・・今日言うの。」
この文から書き始めて、その前を書いて、それから最後を書いたので、
少しおかしいことになっているかもしれません(笑)

記憶違いかもしれませんが、ずっと前に黒/木/瞳さん(確か)が、プロポーズの時の話をしていて。
「FAXでプロポーズしました。」とおっしゃって、
司会か誰かが「どうしてFAXで?」と聞いたところ、

「明日死んじゃったら嫌じゃないですか。」

と答えていたのがすごく印象に残っていたので今回こんなものを書いてみました。

最後の〆がいつも通り思い浮かばず・・・(笑)
書き始めたのが前回の小説をうpしてすぐの10月1日だったのに、書き終わるまでに1カ月もかかりましたw
なんとなく、ちゅーさせたり幽助に謝らせたりをあまりしたくなくて、最後迷っちゃったんですよね。
よってあっさりした終わり方でw

個人的に、幽螢は好きと言うまでに時間がかかりそうな気がしたんです。
なんかこういう小説書くの好きだなあ自分、と思いましたw